鎮魂行について

2022年2月2日WEB法話鎮魂行

3月13日と14日の両日に一般財団法人少林寺拳法連盟本部で開催されていた大学少林寺拳法部連盟本部合宿に指導員として参加して来ました。

この合宿では午前と午後の技術指導の他に「指導員講話」というプログラムがあり、指導員が15分間の講話を行います。合宿2日目の指導員講話のテーマは「鎮魂行について」でした。

今回のWEB法話ではこの時に行った講話の内容を紹介してみようと思います。
鎮魂行の語句の解説は敢えて行わず、なぜ鎮魂行を行うのか、その目的と意義について話をしました。

以下、要旨です。

鎮魂行は少林寺拳法の修錬を行う前に必ず行うべきものです。
鎮魂行は少林寺拳法と一体であり切り離して考えるべきものではありません。法形演練や演武、運用法は行うのと同じように鎮魂行も行うべきものです。

少林寺拳法は人づくりの行ですが、ただ拳技の修錬を行うだけで行となり得るのかというと私はそうは思えません。拳技を修めた高段者であっても時に不祥事を起こしてしまう事もあるように自分の心を律すると言うことは難しいものだからです。

私は拳技としての少林寺拳法が行となり得るために鎮魂行が必要であると考えています。

鎮魂行で唱和している道訓(金剛禅門信徒であれば教典)の内容を思い返してみると当たり前のことしか書かれていないことに気が付きます。しかしそれらの内容を全て実践できているかというとどうでしょうか?
誰でも実践できてなくて心に引っかかる箇所がいくつかはあるはずです。

例えば友達と喧嘩をしている時に「朋友を信じ」と唱和すればちょっと心に引っかかります。その心の引っかかりが実はとても重要で、その引っかかりがあるからこそ人は自らの行動を見直して本来あるべき方向に軌道修正をする事ができます。

このような物を「規範」と言います。
自分の行動や考え方についての規範を持つ事はとても重要です。近年はその規範に対する意識がとても希薄になっているように思われてなりません。いわゆるバイト・テロと言われる問題はその典型的な例であると思います。

かつては侍たちの間では武士道という不文律がその規範となっていました。戦前では教育勅語がその役割を担っていました。新渡戸稲造著の「武士道」は書店で購入できます。教育勅語はネットで簡単に調べる事が出来るので一度その内容を確認してみてはどうでしょうか。

戦後はそれらの規範が失われつつありますが我々は道訓(教典)という規範を持っています。その事はとても貴重な事であると思います。

鎮魂行を行い、そこで唱和している内容を修練の場や日常生活で実践すればきっと良い結果が生じると思います。また実践を通じて道訓(教典)の内容を理屈ではなく体感覚として理解する事が出来るはずです。

このように私は少林寺拳法と鎮魂行は互いに補完し合う関係にあり、故に一体であると考えています。鎮魂行を行なっているところは更にその内容に対する理解を深めて下さい。行なっていないところは是非一度続けて行なってみてください。

以上

講話に入るまでに鎮魂行を行なっているのかを尋ねたら概ね行なっているようで、行なっていないのは少数でした。
講話の後に「必ず修練の前に行わなければならないのでしょうか?」との質問がありました。原則的には修練の前に行うが、場合によっては途中や最後に行う事もあり得る。と回答しました。

ちなみに米子祇園道院では門下生の参座が1名であっても必ず鎮魂行を行なっています。
僧籍にある拳士は和袈裟を着用する事にしています。