少林寺拳法が誰にでも出来る理由

WEB法話

「少林寺拳法は誰にでも出来ますよ」僕はそう考えています。
本人にその気があれば年齢や性別、傷害の有無にかかわらず少林寺拳法は誰にでもできると考えています。

理由は1つ、少林寺拳法は誰かと競いあうことを目的としていないからです。

例えば、誰かよりも強くなることを目的とした場合は勝つ事を目指して修練しなければなりませんよね。

確かにそれが修練のモチベーションになると言うプラスの側面もあります。

しかし勝つ事へのこだわりが強くなると、それに付いて行くことができない人も出てくる訳です。

例えばスポーツの世界ではどうでしょうか?

チーム・スポーツの場合はチームの勝利に貢献出来る優秀な選手は歓迎されますが、そうでない選手は肩身の狭い思いをしなければなりません。

個人競技であってもその選手が所属する団体の名誉と言うものを背負って戦う場合、やはり勝てる選手は歓迎され、そうでない選手は肩身の狭い思いをしなければなりません。

勝つ事を目標としている場合は、どうしても勝てる人が主役になってしまう。
そうでない人は脇役に追いやられてしまうんです。

それを全否定する訳ではありませんが、少林寺拳法はそういうスポーツの在り方から一線を画しているのです。

少林寺拳法にはそもそも「誰かに勝つ」為の試合という者がありません。
少林寺拳法の競技としては演武の出来栄えを採点して順位付けする形式の物がありますが、そこでの上位を狙うことが最大の目的と言う訳ではありません。

少林寺拳法では誰かに勝つ事よりも、昨日の自分と比べて少しでも上達する事を大切にしています。
その結果として自信を得て、さらに自分の可能性に気がつく事を何よりも大切にしています。
道院で共に修練に励んでいる拳士は競争する相手ではなくて、上達のための協力者です。
だから競技に出場して優秀な成績が取れなかったとしても、どんなに上達が遅くても、その人なりに頑張って自信を得て自分の可能性に気が付けば何よりも良い事なのです。

道院では拳士一人ひとりが主役なのです。

これが僕が少林寺拳法は年齢や性別、傷害の有無にかかわらず誰にでもできると考える根拠なのです。

まとめ
少林寺拳法は誰かとの競い合いでは無く、過去の自分との比較を大切にしているから誰にでも出来るのです。

追伸
米子祇園道院の主役は所属している拳士一人ひとりです。
あなたも仲間に加わりませんか?
興味を持ったら入門案内をご覧くださいね。